理論・研究

心理学の歴史|ヴントから現代まで150年の流れ

更新: 長谷川 理沙
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心理学の歴史|ヴントから現代まで150年の流れ

心理学史とは、古代ギリシャ以来の哲学的な心の議論が、19世紀後半に実験と測定へ移り変わっていく過程である。1879年、ヴントがライプツィヒ大学に世界初の心理学実験室を開いたことで、心理学は独立した科学として歩み始めた。

心理学史とは、古代ギリシャ以来の哲学的な心の議論が、19世紀後半に実験と測定へ移り変わっていく過程である。
1879年、ヴントがライプツィヒ大学に世界初の心理学実験室を開いたことで、心理学は独立した科学として歩み始めた。
心を約2000年にわたる哲学の主題から切り出したこの若い学問は、まだ150年弱の歴史しか持たない。

その流れを追うと、心理学史の面白さは年号の暗記ではなく、学派どうしの反発の連鎖にあるとわかる。
要素主義への反発からゲシュタルトが、内観法への反発から行動主義が、行動主義への反発から認知心理学が生まれ、何に異議を唱えたのかを押さえるだけで見通しが一気に変わる。

本記事では、ヴント以前の前史から構成主義、機能主義、行動主義、精神分析、ゲシュタルト、1950年代の認知革命、さらに人間性心理学・神経科学・ポジティブ心理学までを年代順に一本の線でつなぐ。
人物名、代表作、年代をセットでたどりながら、流れがつながらないというつまずきをほどいていきましょう。

歴史的事実と各学派の主張に絞って整理し、精神疾患の診断や治療には踏み込みません。学術史としての正確な見取り図を手元に置きたいなら、この通史はおすすめです。

心理学の前史|哲学から科学への分岐点

心は長いあいだ、プラトンやアリストテレス以来の哲学の主題でした。
とくに心身問題のように、「心と身体はどう関係するのか」をめぐる問いは、観察や実験で確かめるというより、思索で論じるものとみなされていたのです。
心理学が科学として立ち上がるまでには、この前提を揺さぶる転機が必要でした。

古代ギリシャから続く『心』への問い

古代ギリシャの時代から、人間の心は「何でできているのか」「身体とどう結びつくのか」という形で考えられてきました。
ここで重要なのは、問いそのものがすでに鋭かった一方で、当時はまだ測定の対象として扱う発想が弱かったことです。
つまり、心は深く考えるべきものではあっても、手に取るように扱える対象ではなかったわけです。

この見方が変わるまで、心理学は哲学の内部にとどまり続けました。
心身問題をめぐる議論が長く続いたのは、心が主観的で、外から直接つかみにくいと考えられていたからでしょう。
だからこそ、後にフェヒナーやエビングハウスが「内面も数え、比べ、再現できる」と示した意味は大きいのです。

フェヒナーの精神物理学(1860年):心を数式で測る

転機は、フェヒナーが1860年に『精神物理学要綱』を刊行したことでした。
物理刺激の強さと感覚の大きさの関係を数式で表したことで、心の働きは曖昧な内面談義ではなく、対応関係として扱えると示したのです。
これは単なる方法の工夫ではありません。
心という見えないものに、測定と法則の言葉を与えた点にこそ決定的な意味があります。

学術論文の要約を追っていると、現代の精神物理学的測定法の論文がいまもフェヒナーの枠組みを引いている場面に何度も出会います。
150年以上前の発想が、いまなお現役で使われているのです。
筆者が心理学史を学び直したときも、最初は「ヴント=心理学の父」だけを覚えていて、なぜそこが起点になるのかが腑に落ちませんでした。
フェヒナーの仕事を知って初めて、1879年が無からの出発ではなく、土台の上の制度化だったと理解できたのです。

エビングハウスの記憶研究(1885年):内面を実験する

1885年には、エビングハウスが『記憶について』を刊行し、無意味つづりを使った自己実験で忘却曲線と学習曲線を初めて記述しました。
記憶は外から見えないからこそ哲学の領域に残りやすいのですが、彼はその内面の働きに対しても、再現可能な実験手続きを持ち込みました。
ここで心理学は、感じ方だけでなく、覚える・忘れるという時間変化まで数量化できる学問へと近づいたのです。

この流れを押さえると、ヴントの1879年のライプツィヒ大学での実験室設立は、単独の天才的始点ではなく、精神物理学という前史の上に学問の制度を立ち上げた出来事だと見えてきます。
前史があるからこそ、心理学は「心を考える学問」から「心を測る学問」へ移れたのです。
流れは断絶ではなく連続でした。

ヴントと心理学の誕生|1879年・世界初の実験室

1879年、ヴントはライプツィヒ大学に世界初とされる心理学実験室を設立し、心理学を哲学の一部ではなく独立した実験科学として扱う土台を築きました。
心理学の歴史でこの年が「元年」とされるのは、心を語るだけでなく、専門の実験室と研究プログラムを持つ学問として制度化されたからです。
最初の授業で「1879年」とだけ板書され、その意味が宙に浮いたままだった記憶は今も残っています。
だからこそ、この節ではその「なぜ」を丁寧に埋めていきます。

1879年が『心理学元年』と呼ばれる理由

ヴントの重要性は、単に新しい場所を作ったことにあるのではありません。
ライプツィヒ大学という大学組織の中に、心理現象を反復的に観察し、測定し、訓練された手続きで扱う拠点を置いた点に意味があります。
古代ギリシャ以来、心は長く哲学の主題でしたが、1879年はその議論が「制度を持つ科学」へ変わる境目になりました。
フェヒナーが1860年に精神物理学で「心は測れる」と示し、エビングハウスが1885年に忘却曲線を描いた流れの中心に、この実験室があるのです。

ℹ️ Note

心理学史で年号が強調されるのは、その年に何が「初めて起きたか」だけでなく、学問のやり方が変わったかを示すからです。

研究助手として実験参加者への教示を厳密に統制しようとすると、同じ説明のはずなのに言い回しや間の取り方で反応が揺れる場面に何度も出会いました。
ヴントが「訓練された観察者」にこだわったのは、まさにそのぶれを減らすためです。
心理学を学問として成立させるには、思いつきを集めるだけでは足りず、誰がやっても一定の条件で検討できる枠組みが必要だったのです。

内観法:訓練された観察者が意識を報告する

ヴントの研究手法は内観法でした。
ここでいう内観法は、日常的な「内省」とは違います。
訓練された参加者が、厳密に統制された条件のもとで、自分の意識内容を観察し、感覚や感情を報告する方法です。
個人的な気分を自由に語るのではなく、刺激を受けた直後に何が意識されたかを、できるだけ揺れの少ない形で記述させる点が肝心でした。
心理学が主観を扱いながらも科学を名乗るための、ぎりぎりの工夫だったとも言えます。

この方法が重視されたのは、心の現象が目に見えないからこそ、報告の手順を整える必要があったからです。
訓練とは、ただ慣れることではありません。
観察の焦点をそろえ、刺激と反応の間に余計な解釈を挟まないよう整える作業です。
だからこそ、内観法は「誰でも好きに自分を振り返る」方法ではなく、専門的な訓練を前提にした実験技法でした。

要素主義:意識を最小単位に分解する発想

ヴントの立場は要素主義と呼ばれます。
意識を化学のように最小の要素へ分解し、その組み合わせとして心を理解しようとした考え方で、初学者向けに言い換えるなら「心を構成パーツに分けて調べる」発想です。
たとえば、複雑な体験をそのまま丸ごと説明するのではなく、感覚、感情、注意の働きなどに分け、どんな要素がどう結びつくのかを見ようとしました。
ここに、心理学を分析的な学問として立ち上げる姿勢があります。

もっとも、ヴントを内観法の人としてだけ覚えると単純化しすぎになります。
彼は実験室の研究だけでなく、言語や習慣など集団の心を扱う民族心理学も構想していました。
つまり、個人の意識を細かく調べる仕事と、人間が共同体の中で育てる心の働きを見る仕事の両方を視野に入れていたわけです。
ヴントを起点に心理学が独立したのは、心を分解して見る方法を手に入れたからであり、同時にその先へ広がる地平も示したからでした。

構成主義と機能主義|意識の『構造』か『はたらき』か

ヴントの流れを受けた初期心理学では、ティチェナーの構成主義とジェームズの機能主義が、意識をどう捉えるかで鮮やかに分かれます。
前者は意識を要素へ分解して「構造」を明らかにしようとし、後者は意識が生存や適応にどう役立つかを問いました。
この違いを押さえると、同じ「心」を扱っていても、研究の問いそのものがまったく別物だとわかります。

ティチェナーの構成主義:意識を解剖する

ティチェナーはヴントの流れを継ぎつつ、アメリカで構成主義(構造主義)を打ち立てました。
意識経験を感覚・心像・感情状態の3要素から成ると整理し、その組み合わせを丁寧に分けていけば、心の「構造」が見えてくると考えたのです。
ここでの発想は、料理の味を「何が入っているか」に分けて確かめるのに近いでしょう。
体験そのものの役立ち方より、まずは素材の内訳を正確に押さえる。
そこに分析の出発点があります。

着眼点代表者問いの形
意識の要素ティチェナー何からできているか
意識の構造ティチェナーどう組み合わさるか
体験の機能ジェームズ何の役に立つか

資格試験対策を手伝ったときも、受験生はこの二つを混同しやすいと感じました。
けれど「構造」と「機能」という二語に立ち返るだけで、区別はぐっと明瞭になります。
筆者が論文を読み比べた際も、同じ「記憶」を扱っているのに、構成主義の研究は記憶の中身の分解に向かい、機能主義の研究は記憶が生活の中で何を果たすかへ進んでいて、問いの立て方の違いがはっきり見えました。

ジェームズの機能主義:心は何の役に立つか

ジェームズの機能主義は、意識を「環境に適応し生存するための機能」ととらえました。
心を静的な構造として固定するのではなく、状況に応じてどう働くのかをみる視点です。
ここがティチェナーと最も対照的な点で、構成主義が「内部の部品」に注意を向けるのに対し、機能主義は「外界とのやり取り」に目を向けます。
意識は飾りではなく、行動を調整し、生き延びるために働く。
そう考えると、心は止まった模型ではなく、動き続ける装置になるのです。

この視点の重要さは、心理学を体験の分解だけで終わらせなかった点にあります。
何のために意識があるのかを問うと、感覚や思考は環境への応答として意味づけられ、研究は自然と行動へ接近していきます。
実際のところ、機能を問う議論は、そのまま次の「行動をどう説明するか」という問いへつながりやすい。
だからこそ機能主義は、のちの行動主義の母胎になったと理解すると筋が通ります。

対立から見える次の時代への伏線

両者の対立は、「意識をどう切るか」に集約できます。
構成主義は構造を解剖し、機能主義ははたらきを問う。
似ているようで、見ている焦点はまったく異なります。
読者にとっては、ここを取り違えないことが最大のポイントです。
前者は心の内訳を整理する学派、後者は心の役目を説明する学派だと押さえれば、後続の心理学史も追いやすくなります。

もっとも、この対立は単なる勝ち負けではありませんでした。
機能主義が「適応のための機能」を重視したからこそ、心理学は内面の記述だけでなく、外に現れる行動へ視野を広げることになります。
つまり、学派は孤立して並んだのではなく、次の学派を準備しながら連鎖していったのです。
構成主義が心の細部を切り出し、機能主義がその働きを外界に接続した。
その流れの先に、行動主義が立ち上がっていきます。

行動主義の登場|観察できる『行動』だけを科学する

1913年のワトソンは、心理学を内観法の学問から、観察できる行動の科学へと切り替えました。
自分の内面を自分で報告する方法では、他人が同じ条件で確かめられない。
だからこそ、刺激と反応のつながりを実験室で扱える形に落とし込むことが、心理学を自然科学に近づける道だと考えたのです。

1913年ワトソンの宣言:心理学を行動の科学に

ワトソンが1913年に行動主義を宣言した意味は、単なる理論の追加ではありません。
心理学が扱うべき対象を、意識の語りではなく、誰の目にも見える行動へと移した転換点だったからです。
内観法は本人の主観に依存し、同じ手続きを別の研究者が再現しても、同じ結果が得られる保証が弱い。
行動主義はその弱点を正面から突き、心理学を観察と測定に支えられた学問として組み直そうとしました。

観点内観法行動主義
研究対象主観的な意識体験観察可能な行動
確かめ方本人の報告外からの測定
再現性弱い強い
心の扱い直接扱ういったん脇に置く

ここで大切なのは、行動主義が「心を否定した」というより、まず科学として扱える形に限定した点です。
定義できないものを無理に測るより、見える現象から法則を探す。
初学者には冷たく見えるかもしれませんが、研究を成立させるうえではきわめて実務的な判断でした。
学習心理学の研究を要約していると、この厳密な実験設計の強さはすぐに伝わってきます。
刺激条件が整い、反応が数値で整理されると、結果の筋道が見えやすいのです。

なぜ『意識』を研究対象から外したのか

行動主義が意識を外したのは、意識が存在しないと考えたからではなく、科学の手続きに乗せにくかったからです。
心理学が目指したのは、観察者によって結論がぶれにくい説明でした。
そのためには、外から与えられる刺激(S)と、それに対する反応(R)の連合に焦点を絞るほうが、はるかに扱いやすい。
心の内側をいったん括弧に入れる発想は、対象を狭める代わりに、研究の厳密さを確保する方法だったわけです。

この立場を初学者向けに言い換えるなら、心をブラックボックスとして扱う、ということになります。
箱の中で何が起きているかを直ちに問うのではなく、どんな入力がどんな出力を生むかを観察する。
すると、学習や条件づけのような現象は、かなり明快に整理できます。
もっとも、その明快さの裏で、主観体験や思考の流れは見えにくくなる。
筆者自身も、学習心理学の論文を要約するたびに、仕組みの見通しやすさに感心しながら、同時に心の内側に触れないもどかしさを感じてきました。
認知心理学を専門に学んだ立場から振り返ると、このブラックボックス化があったからこそ、のちにそれを開けようとする認知革命が際立ったとも言えます。

スキナーへの継承とアメリカでの隆盛

ワトソンの路線は、その後スキナーやハルらに受け継がれ、20世紀前半のアメリカ心理学で主流になりました。
S-R の枠組みは、学習を小さな単位に分解して検証しやすく、教育、訓練、行動の調整といった実用面とも相性がよかったからです。
客観性を重んじ、結果を明確に示せることに価値を置く学問風土の中で、行動主義は広く受け入れられたのでしょう。

ただし、その成功は次の反動も生みました。
心の中身を扱わないという割り切りは、研究を鋭くする反面、人間の思考や表象、記憶のような内部処理を説明しきれない。
ここで排除されたものが、のちに認知革命で再び前面に出てきます。
行動主義は終点ではなく、むしろ心理学が「見える行動」から「見えない情報処理」へ進むための土台でした。
次のセクションでは、この反動がどのように認知心理学の成立につながったのかを見ていきましょう。

精神分析とゲシュタルト|無意識と『全体性』という二つの反論

フロイトの精神分析とゲシュタルト心理学は、意識だけを見ていては心の全体像に届かないという点で、主流の心理学に別方向から異議を唱えた理論です。
1900年の『夢判断』でフロイトは、心を意識・前意識・無意識の三層として捉え、表面に出る思考や言葉の背後に、本人が直接つかみにくい働きがあると示しました。
続くゲシュタルト心理学は、要素を足し合わせても説明できない知覚のまとまりを前面に出し、知覚研究の見方を塗り替えていきます。

フロイトの精神分析(1900年):無意識という発見

フロイトが1900年に『夢判断』を刊行したことは、心を意識の領域に閉じ込めない発想を前面に押し出した点で画期的でした。
意識・前意識・無意識の三層という捉え方は、頭の中で起きていることを「自覚できるもの」と「すぐには自覚できないもの」に分けて考える枠組みであり、行動や語りの背後にある動機を読む手がかりになります。
意識の分析だけでは人の心を理解しきれない、という主張の重みはここにあります。

精神分析が実験室の心理学と異なるのは、出発点が臨床の場にあるからです。
夢、語り、連想のずれといった現象を手がかりに、目に見えない心的過程を読み解こうとしたため、測定しやすい反応を追う研究とは方法も対象も違いました。
学術的厳密さを重んじる立場から見ると、実証性をめぐる批判は切り分けて考える必要がありますが、それでも無意識という視点が心理学にもたらした影響の大きさまで小さく見積もるのは適切ではありません。
ここは留保を付けて語るのが筋でしょう。

ゲシュタルト心理学(1912年):要素に還元できない全体

ゲシュタルト心理学は、心や知覚を部品の集まりとして扱う要素主義への反論として登場しました。
ウェルトハイマーが1912年に論じた仮現運動は、静止画が連続して提示されると動いて見える現象で、見えているのは単なる刺激の足し算ではないことを示します。
『全体は部分の総和以上』という有名な発想は、まさにこの経験に支えられています。

この考え方が重要なのは、知覚が「まず要素があり、あとで組み立てられる」のではなく、最初からまとまりとして立ち上がると捉え直した点です。
図と地の区別、近さや連続性によるまとまりは、今読んでも古びません。
筆者は知覚の論文を読むたびに、100年前の全体論的発想が現代の視覚研究にも生きていると感じます。
画面上の点や線をどう並べるかで見え方が変わる、あの不思議さは今も研究の核心に残っているのです。

主流への二方向からの異議申し立て

精神分析は『意識の下』へ、ゲシュタルトは『要素の上』へ向かい、どちらも主流の心理学に対して別の方向から問いを投げかけました。
前者は、意識に上ってこない心的内容が人の行動や夢を左右するとし、後者は、知覚のまとまりは要素の寄せ集めでは説明できないと示した。
方向は違っても、どちらも「見えているものだけでは足りない」という点で響き合っています。

この二つの反論が後の臨床心理学や知覚・認知の研究へ流れ込んだことで、心理学は単なる反応測定の学問から、心の深さや構造を扱う学問へと広がっていきました。
精神分析の影響力を認めつつ実証性への評価は分けて語る、ゲシュタルトの洞察を現代の図と地研究につなぐ。
そうした留保ある整理こそが、この時代を読むうえでいちばん誠実な見方だと思います。

認知革命と認知心理学|心の中身を情報処理として描く

1950年代の認知革命は、行動主義がいったん脇に置いた「心の中身」を、ふたたび科学の対象へ戻した転換点でした。
背景にはコンピュータの登場があり、心を入力・処理・出力からなる情報処理システムとして捉える比喩が、単なる思いつきではなく研究の枠組みになっていきます。
筆者は認知心理学を専門としているため、ワーキングメモリの論文でミラーの7±2が今でも出発点として繰り返し引かれるのを見るたび、自分の領域の源流がここにあるのだと実感します。
情報処理という言葉が当たり前になった現在だからこそ、その新しさを歴史の中で見直す意味があるでしょう。

1956年・認知革命:ブラックボックスを開ける

1956年は、認知革命を象徴する年として扱われます。
ミラーの論文『マジカルナンバー7±2』が示したのは、人が一度に保持できる情報の塊、つまりチャンクにはおよそ7±2という上限があるという事実でした。
ここで重要なのは、外から見える反応だけではなく、見えない内部処理にも測定可能な容量があると示した点です。
行動主義が重視した厳密さを保ちながら、心の働きを数量化して扱える道が開けたのでした。

この転換が強かったのは、抽象論ではなく実証の形を取ったからです。
人はただ「覚える」「忘れる」と言われても、その仕組みを検証できません。
けれどもチャンクという単位で見れば、情報をまとめて保持する限界が見えてきます。
ミラーの1956年の仕事は、ブラックボックスと呼ばれてきた心の内部に、測れる窓を開けた研究として記憶されています。

情報処理モデル:心をコンピュータに見立てる

認知革命の広がりを支えたのは、心をコンピュータになぞらえる情報処理モデルでした。
入力された刺激がそのまま反応になるのではなく、注意で選ばれ、記憶で保持され、思考で組み立て直されて出力に至る。
こうした見方が定着すると、記憶、注意、思考はばらばらの話ではなく、同じ処理系の異なる局面として整理できるようになります。
認知心理学の核心は、行動主義の厳密さと心の中身の扱いを両立させた点にあります。

当時のコンピュータ比喩は、今の学生に説明すると想像以上に新鮮だったはずだと感じます。
いまは誰もが「処理」「容量」「入力」といった語を自然に使いますが、その感覚は1950年代にはまだ新しかったはずです。
だからこそ、この比喩は単なる便利なたとえではなく、心を研究する言語そのものを変えたのです。
ここはポイントです。
比喩が思考の枠をつくり、その枠が新しい実験を生んだのだと言えます。

ナイサーの『Cognitive Psychology』

1967年にナイサーが刊行した『Cognitive Psychology』は、『認知心理学』という呼称を学界に定着させました。
用語が広まったことの意味は小さくありません。
分野名が定まると、研究者は何を同じ問いとして扱うのかを共有できるからです。
つまり、ミラーのような個別の成果が、ばらばらの実験ではなく一つの学問領域へ束ねられていきます。

ナイサー自身がゲシュタルトの影響下にあったことも、この流れを理解するうえで示唆的です。
認知心理学は、行動主義への単純な反発として生まれたのではなく、既存の学派を引き継ぎながら組み替えていった歴史でもありました。
断絶より継承が強い。
学問はしばしばそうして前に進みます。
認知革命からナイサーの1967年までをたどると、心の中身をどう科学化するかという問いが、確かな名前を得て定着していく過程が見えてきます。

人間性心理学から現代へ|第三勢力・神経科学・ポジティブ心理学

人間性心理学は、精神分析と行動主義が強く影響した20世紀心理学の流れに対して、マズローやロジャーズが切り開いた第三の立場だった。
病理や刺激-反応の説明だけでは、人が成長し、意味を見いだし、自己実現へ向かう過程を十分に捉えられない。
その限界を越えようとしたところに、この学派の出発点があります。

第三勢力としての人間性心理学

マズローは人間性心理学を、精神分析(第一勢力)・行動主義(第二勢力)に続く『第三勢力』と位置づけた。
ここで重視されたのは、症状の原因追及でも、外からの刺激に対する反応の測定でもなく、人間の健康的な側面そのものです。
ロジャーズのように、自己概念や受容、成長への傾きに注目した発想は、心理学を「壊れた部分の修理」から「よく生きる条件の探究」へ押し広げた点で画期的でした。
今の心理学でレジリエンスやウェルビーイングが自然に語られるのも、この転回があったからです。

脳科学・神経科学との接続

20世紀後半以降、脳機能イメージングなどの技術進展によって、心理学は神経科学と急速に結びついた。
心の働きを脳活動と対応づける研究が広がると、記憶や注意、感情といった目に見えにくい過程も、実験室の中で具体的に扱えるようになります。
学派ごとの主張を言い争う時代から、同じ現象を複数の水準で確かめる学際的な研究へと重心が移ったわけです。
最近の論文を追っていると、認知心理学と神経科学、社会心理学が一つの研究の中で交差する場面が増えたと実感します。
学派の壁は薄れ、問いそのものを共有する方向へ進んでいるのです。

ポジティブ心理学(1998年)と現代の多元化

1998年、セリグマンはAPA(アメリカ心理学会)会長就任演説でポジティブ心理学を提唱した。
不適応や病理だけでなく、幸福・強み・レジリエンスといった「うまくいっている状態」を科学する流れがここから明確になり、心理学の関心は再び広がりました。
臨床だけでなく、教育、組織、発達、社会的な支援まで視野に入るようになったことが大きいでしょう。
現代の心理学は、認知・神経科学・社会・発達・臨床などが並立する多元的な学問です。
ヴントから約150年、反発の連鎖はそのまま終わらず、多様な専門の共存へと着地したのだと見てよいでしょう。
心理学史を一本の線として学び直すと、個々の用語は暗記項目ではなく、継承と反発の物語としてつながります。
その見通しの良さを、読者にも持ち帰ってほしいと考えます。

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長谷川 理沙

心理学系大学院修了。認知心理学・社会心理学を専門とし、年間100本以上の論文に目を通しながら最新の研究動向を分かりやすく解説します。

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